コラム
世界の子どもたち インドネシア「権利」
写真・文 中西あゆみ
あそびのもり 2016年 45号より
休校の午後、近所の子どもたちで賑わう「独立宣言記念公園」。1945年8月17日、スカルノ初代正大統領とモハマド・ハッタ初代副大統領の2人によって、オランダや日本など多民族支配からの独立が宣言されました。独立宣言文を前に2人の銅像が立つこの公園は、スカルノ邸跡地一帯につくられています。
スカルノ初代正大統領(左)とモハマド・ハッタ初代副大統領の銅像の間にある独立宣言文を眺める近所の子どもたち。中央ジャカルタ「独立宣言記念公園」。
350年にわたってオランダの植民地下にあったこの国に、日本軍が侵攻したのは太平洋戦争最中の1942年。それを機にオランダ統治は崩壊し、日本による3年半の統治がはじまりました。日本軍は地元民に日本語教育や過酷な軍事訓練を施しました。
植民地時代の歴史が残る北ジャカルタ、コタ・トゥア地区の一角「ファタヒラー広場」。かつてオランダ総督府だった建物は今ではジャカルタ歴史博物館となり、毎日多くの訪問者が訪れる。
インドネシア人の記憶に残る一人の日本人、「前田精」氏。当時、海軍少将・ジャカルタ在勤武官を兼任していました。1945年8月15日、第二次世界大戦で日本が連合軍に降伏した事実を認め、インドネシアの独立が穏便に進むことを事実上手助けするために、前田氏の公邸でスカルノとハッタ両氏による独立宣言起草のための会合が行われたと言われています。
前田氏は後に独立名誉勲章を授与され、公園の近くにある旧前田邸は独立記念宣言起草博物館として保存されることになったのです。功罪相半ばする侵攻を行った日本軍の記憶は、インドネシア人の心に深く焼きついています。
「独立記念宣言起草博物館」として保存されている旧前田邸。中央ジャカルタ。
最近では日本でもインドネシアのニュースが増え、この国がより身近な存在になりました。ここ2年の間に、市内を走る電車の屋根に乗ることやドアなし電車の走行が禁止され、JRなど日本のきれいな中古車両が多く使用されるようになっています。女性専用車両もあり一見日本同様のサービスです。しかし、電車とホームの間の30センチもある隙間や、ホームからドアまでの1メートル以上の段差など、その現実は安全が考慮されたサービスとは言い難い状況です。交通環境も未だ改善されません。横断歩道に信号がなく、歩行者のために車が止まることはありません。命がけで道路を渡る人たちに、ひっきりなしに走ってくる車やバイクから猛烈なクラクションが浴びせられます。
1870年に開業された長距離列車の始発駅「ジャカルタコタ駅」。ホームが低く、電車との段差が1メートル以上あるため、簡易的な階段が置かれている。北ジャカルタ。
雨の「カリバタ駅前」。電車を降りてきた人に傘を差し出し、必要な場所まで一緒に歩くサービスをする子どもたち。料金はお客次第だが大抵一回数十円の稼ぎになる。南ジャカルタ。
中央ジャカルタの幹線道路沿い。交通量は常に多い。
特に子ども、老人、子連れ、障がい者にとって、この暮らし辛い環境が改善される日は来るのでしょうか。ここでは、人々が持つべき権利について、多くの人たちがまだ気付いていません。日本ではごく当たり前の日常が、こちらでは想像することもできない世界なのです。人々が当たり前であるべき権利を主張することができ、誰もが暮らしやすい環境そのものが当たり前になる日が、いつかここにも訪れることを切に願っています。
食事をするお客の前で小銭稼ぎのため古い歌を歌う少年2人。南ジャカルタ。
中央ジャカルタにある「独立宣言記念公園」で出会ったレージャン。